ヤクドウヨクジョウガンボウタイハフッカツ そばにいても。サイセイソレカラココロハワレル


「俺、さぁ、」

何度目か俺が口に出そうとしたそれを、その男は視線でかわしました。すなわちそのたびに目を合わせてはくれないのです。拒絶されているのだろうか。こうして今、会っているんだから拒絶されているなんてことはないのでしょうが。俺より幾分高いところにある、短くカットされた髪の後ろ頭を見上げました。こっちを見ていない。見てほしい。見ろ。見ないと、見ないと、どうしてやろう。嫌いにはなれません。大嫌いなんです。なので嫌いになどなれない。なあ俺はお前のことをあいしてるんだ。なんだから、こっちを見て、話を聞いてみてぜひとも。その男の首筋に浮かんだ汗を、首絞めて搾り取ってやりたい。汗で色濃くなったシャツの襟首を引っ張って、思いっきりひっぱってびりびりにしてやる。ついでに首筋に噛み付いてやる。俺は歯並びは良い方です。お前の血管を飲み下してやる。それくらい、それくらいにはあいしてるんだ。だから接触は必然です。必然!お前が俺のそばに、俺がお前のそばにいる限り。




映画館を出た頃には、陽炎はもうコンクリートに飲み込まれていた。それでもやっぱり冷房のきいたところから外へ出るとクラクラしてしまう。夏の夕暮れは何かがおきそうな気がして、いつも気持ちが高揚する。でも今日はきっとお前が隣にいるせいだ。嫌な記憶がよみがえってしまった。メインストリートを藤代と歩く。カップルや、親子や、友達連れ、ああ、でも今日はカップルが多いかな。そういう色んな人たちとすれ違い、歩調を共にする。その中でも、やっぱり藤代の横顔は際立っていた。何が際立っているのか俺にはよくわからない。それでも、藤代はいつも際立っている。なあこっち向いて。うわ、本当に顔を覗き込むなよ。笑うなよ。俺までどうせひきつったように笑っちゃうんだから。嫌な記憶がよみがえる。夏の夕暮れ、あの日もこんなふうだった。暑くて湿っぽくて、なのにどこかひんやりしていた。背中をひと筋、汗が滑り落ちる。あの日の俺は今よりももっとずっと幼かった。小さな子供が泣き出しそうな顔で眉をひそめている。机の一番下の引き出しに大好きなリンゴをしまっておいたんだ。大切だったけど、忘れきっていた。夏休みも終盤。大切なリンゴは一ヶ月ほどの間、暑さと湿気にやられてブヨブヨになっていた。黒ずんで、なんともいえない悪臭を放っていた。突くと小さな指が埋もれて、もうだめなんだと、だめになったんだとはっきりわかった。

「まだ感動してんの?」

すぐ表情が変わる癖をなんとかしたい。そしてすぐ表情を変える術を身につけたい。こいつみたいに。角を曲がるたび、知らない人は知らない目的地へ向かうため俺らとは別れてく。さよなら。どんどん一人に近づくね。さようなら。きっと泣き出しそうな顔をしている俺を見て藤代が方眉を上げた。感動? さっきの映画のことかよ。馬鹿にした顔すんな。俺はお前と映画館なんかで一緒だったのがとても嫌で、嬉しくて、映画どころじゃなかったよ。

「真田ってそうなのな。可愛いよ、ホント」

こめかみの辺りを藤代が指で軽く突付いた。俺、真っ赤になってるかもしれない。泣き出しそうな顔のまんま。想像すると情けなくて、走って逃げてしまいたくなった。でもコイツのほうが足速いから、追いつかれるな、きっと。50メートル6秒フラットなんだって? ていうかコイツ追いかけてきてくれるのかな。来るか。来るだろう。でもそれだけなんだ。追いかけて抱きとめたりなんかはさ。
藤代の顔を上目で見た。出来るだけ睨みつけるみたいに。こいつの方が俺よりもっと泣きそうな顔をしていたので驚いた。俺にはあんな顔できないな。眼だけで泣きかける、なんて。眼だけで笑うって言うのなら聞いたことあるけど。眼が笑ってないっていうのはもっとよく聞くな。でも眼が笑ってないんじゃない。眼が泣きそうじゃないか、これは俺の気のせいじゃないと思うよ。藤代のバカ。


『俺さあ、今日』


もう一度言い出そうとして、飲み込んだ。きっとまた最後まで言わせてはくれないだろう。別にどうでもいいのかもしれないけどさ、今日わざわざ似合わない映画なんかに俺を誘ったのはそういうわけじゃないのかよ。なんでかわすんだ。眼をそらしてさ。
『あっ、あれ見てよ真田』 『あっ、真田そういやさ〜』 『あっ、真田変なかお!』
そうやってかわすだろうまた。聞けよ。聞いてくれよ。なんて思う俺が女々しいのかな。でもお前だってこだわってんじゃないの? よくわかんないけど、お前だってそういうとこ女々しいのかもな。








人気のない路地に出た。薄くなった電柱の影。藤代の向こうには夕方と夜の間の、美しい空が広がっていた。実際は家の影なんかで途切れ途切れなんだけど、でも、藤代の後ろでは大パノラマに変わる。パノラマを背にした藤代はキラキラチカチカ光って見えた。夜を先取りしてるみたいだ。ちくしょ、やっぱ愛してるよ。愛してるなんて、俺の台詞じゃないから、お前にかける台詞じゃないから、藤代に手を伸ばした。ここでさようならをしなきゃいけないんだ。ひとまず、今日んとこは。だから手を伸ばした。離れがたい。手を繋いだり、ぎゅっとしたり、抱き合ったり、キスしたりしたい。それはもう会いたくなくなるくらい。お前のこと大嫌いだからさ。
藤代は俺の手もやんわりかわした。小馬鹿にしたように、呆れたように笑って。眼だけ泣きそうだ。最悪だ。だから一息に言ってやった。


「おれ今日誕生日なんだよ」


やっぱりまだ蒸し暑い。
コンクリートにしみこんだ陽炎は明日また湧き上がってくんのかな。


「そんなん知ってるよ、なに、今ごろ」


藤代の眼はますます泣きそうになった。涙なんてこれっぽっちも浮かんでなかったけれど。
そしてコイツは頭をかきながら言った。言葉の合間合間に唇を舐めた。

「あのね、俺、昨日気に入ってるシャーペンもぶっこわしちゃってさ」

「…は?」

「うーん、なんていうか、俺ってものもちすげー悪いの。気にいってたジャケットもファスナーいかれちゃったし、好きな漫画の表紙なんてビリビリだし、携帯は買って三ヶ月以内には絶対壊すし、もの粗末にしか扱えないの。そういう性格だから」

「それで」

「そんだけ。そういう星の元にうまれたの。ね、真田、大切にしてあげる」

「殴ってもいい?」

「やだよ」





逆光の藤代は笑った。もう一度こめかみを指で突かれる。
すっきりとした眼、大きな瞳。まん丸な瞳だ。リンゴみたいだと思った。藤代は瞳で泣いた。瞳がぐにゃりと歪んだ。






その夜、ベッドに寝転び真っ白な部屋の天井をみあげました。外はとても静かです。家には俺しかいません。部屋が蒸し暑い。腐ったリンゴのことをまた思い出すと、なんとなくこめかみが痛くなりました。急いでエアコンをつけました。今日は誕生日でした。最悪です。俺が誕生日のときだけ、藤代は俺をかわします。拒絶されているのだろうか。いえ、こうして今日、会ったんだから拒絶されているなんてことはないのでしょうが。手を繋ぎたい。抱き合って、キスして、もっと色々したい。それくらいにはあいしているよ。俺はまだ大丈夫なんでしょうか。だけど心が裂けてしまいそうです。『藤代、藤代、藤代。』三度呼んでみても、メール、電話、そんなにタイミングよく来ないし。まして藤代が今ここへ来るはずなんてありません。なあ、俺は腐ってもいいよ。ブヨブヨになってだめになってもいい。大切にしなくてもいいのに、なにが大切にする、だよバカ。全然大切にしてないじゃないか。6秒フラットで迎えに来いよ。必然だ!
俺はあの男が大嫌いです。




ヤクドウヨクジョウガンボウタイハフッカツ もっとそばに。サイセイソレカラココロハワレル








end